10時頃来てよね

奇妙な実話(怪談)の覚書き。

首のない老婆

医師をしているKさんから奇妙な話を聞いた。

 

Kさんは脳神経外科の医師で、主に認知症の老人を担当している。病棟に入院中の患者さんの多くが80代以上で、医師であるKさんを認識していない(できない)状態の人も多いと聞いた。

 

そんな中、K医師を自分の息子だと頻繁に間違えるおばあさんがいた。

認知症の程度は軽かったが、事情があり家庭での介護が難しく、また脳溢血の既往歴があり無理はさせられないとの判断からの長期入院だった。

物腰の丁寧さや、自分で生ける花瓶の花のセンスが良いことから、おそらく育ちの良いお嬢様だったのだろうと看護師が噂していたほどおっとりとしており、実際にK医師から見ても、かわいらしいおばあさん、だった。

息子に間違えられても迷惑に感じることなど一切無く、もう何度目かになるが窓から見える病院の中庭に咲く花の名前を教えてもらうなど、よく話に付き合っていた。

 

ある日、K医師が回診で病棟を訪れると、まだ昼食の時間が終わっておらず配膳や手助けで看護助手さんたちがバタバタとしていた。

どうやら、給食センターで手違いがあり、その病棟の食事が1時間程度遅れたとのことだった。

K医師は午後の診察時間の関係から後ろにずらすことができず、

「申し訳ないが、回診をさせてほしい」と看護師長に了解を得て病室を周り始めた。

 

食事の配膳のため開け放されているドアから、例のおばあさんのいる病室に入ると、

「んぐう、んぐう」と苦しそうな声が聞こえる。

しまった!誤飲か、と焦ったK医師は病室を駆け足で奥まで進み、おばあさんのベッドのカーテンをジャッと勢いよく開けた。

すると、ベッド脇には看護助手が座り、おばあさんの口を手で押さえて閉じられないようにした状態で、スプーンでごはんを詰め込んでいた。

 

「なにをしている!」

K医師は、そのまま凍りついたように停止している看護助手の手をはたき落とし、急いでおばあさんの口に手を入れて飲み込みきれていない白米を掻き出した。

その時K医師は、飛んでいったスプーンがリノリウムの床で跳ね返る音が印象的で覚えていると言った。

私自身、K医師は精神科の先生によくあるような、常日頃から穏やかで、衝動的な行動をする人では無いことを知っていたから、看護助手の手をはたき落としたと聞いて驚いた。

それだけ、ショックな情景だったんだろうと想像できる。

 

K医師はナースコールを押し、看護師長にすぐ来るように伝え、おばあさんの状態を確認した。

誤飲もなく、とりあえずお茶を飲ませて喉のつまりがないことを本人から聞いてようやく安心できたという。

当の看護助手はすでにその場におらず、どうやら逃げたようだった。そちらの処理は看護師長に委ねることとし、

「院長に相談して、できれば警察に調べてもらって」と言い残してK医師は午後の診察へと向かった。

十分に死に至る行為である。繰り返させないためにも捕まえる必要があると思ったが、病院内部のことを警察に相談するとは思えなかった。

K医師は冷静を装っていたが、内心ではあまりの仕打ちに腸が煮えくり返る思いだったと言う。

こちらが真剣に治療をしている患者さんに、ああいった暴力で命を危険にさらすなど、ありえないことだとK医師は力強く言った。

 

それから3日後、K医師は早朝の手術のため、前夜から病院の当直室に泊まり込んでいた。帰宅してもとんぼ返りになるような過密なスケジュールの場合の泊まりは、ままあることで慣れたものだった。

 

K医師は夜中に尿意で目を覚ました。あと2時間もすれば起きなくてはならないが、我慢するのも身体に良くないと思い面倒ながら起き上がった。

 

すると、仮眠室のドア横に人影があった。

他の先生ではない、白衣も着ていないし、そもそも……

 

K医師は枕元に置いてあったメガネをかけると、そこには入院着の浴衣を着た、首から上がない身体だけが佇んでいるようだった。

K医師はすぐに、あのおばあさんだ、と直感して飛び起きて白衣を羽織ると、大急ぎで病棟へとかけていった。

 

病棟へ辿り着くと、ちょうど当直だった看護師長が慌てて当直の医師を呼んでいるところだった。

「師長さん、もしかして」

看護師長は内線電話を切るやいなや「そうです!先生どうしていらっしゃるんです?」

「たまたま泊まり込みで……」そう話しながら急ぎおばあさんの病室に行き、看護師長と一緒におばあさんのベッドを空いている個室へ移動させた。

「やっぱり……」K医師はほぼ確信していた。

当直の医師の見立てでは、おばあさんは苦しむこともなく、眠っている間にゆっくりと心肺が停止したとのことだった。いわゆる老衰だ。

 

K医師は手を合わせ、ナースステーションへと戻った。

看護師長にことの成り行きを説明しながら、胸中でおばあさんに謝った。よい思い出だけ持っていけたら良かったのに、と3日前の出来事を悔やんで。

「最後に嫌な思いをすることになり、恨んでいるんじゃないかな」とK医師が思わず吐露すると、看護師長は、K医師の腕に手をおいて穏やかな声で言った。

 

「先生、それは違う。おばあさんの首が見えなかったのは、頭を垂れていたから。先生に、お世話になったお礼を言いに来たのよ。深く頭を下げて、丁寧にお辞儀をしていたのよ。あのおばあさんらしいでしょ」

 

その言葉に胸のつかえがスッと取れたんですよ、と、K医師はやや涙が滲んだ目で私に語ってくれた。