首のない老婆
医師をしているKさんから奇妙な話を聞いた。
Kさんは脳神経外科の医師で、主に認知症の老人を担当している。病棟に入院中の患者さんの多くが80代以上で、医師であるKさんを認識していない(できない)状態の人も多いと聞いた。
そんな中、K医師を自分の息子だと頻繁に間違えるおばあさんがいた。
認知症の程度は軽かったが、事情があり家庭での介護が難しく、また脳溢血の既往歴があり無理はさせられないとの判断からの長期入院だった。
物腰の丁寧さや、自分で生ける花瓶の花のセンスが良いことから、おそらく育ちの良いお嬢様だったのだろうと看護師が噂していたほどおっとりとしており、実際にK医師から見ても、かわいらしいおばあさん、だった。
息子に間違えられても迷惑に感じることなど一切無く、もう何度目かになるが窓から見える病院の中庭に咲く花の名前を教えてもらうなど、よく話に付き合っていた。
ある日、K医師が回診で病棟を訪れると、まだ昼食の時間が終わっておらず配膳や手助けで看護助手さんたちがバタバタとしていた。
どうやら、給食センターで手違いがあり、その病棟の食事が1時間程度遅れたとのことだった。
K医師は午後の診察時間の関係から後ろにずらすことができず、
「申し訳ないが、回診をさせてほしい」と看護師長に了解を得て病室を周り始めた。
食事の配膳のため開け放されているドアから、例のおばあさんのいる病室に入ると、
「んぐう、んぐう」と苦しそうな声が聞こえる。
しまった!誤飲か、と焦ったK医師は病室を駆け足で奥まで進み、おばあさんのベッドのカーテンをジャッと勢いよく開けた。
すると、ベッド脇には看護助手が座り、おばあさんの口を手で押さえて閉じられないようにした状態で、スプーンでごはんを詰め込んでいた。
「なにをしている!」
K医師は、そのまま凍りついたように停止している看護助手の手をはたき落とし、急いでおばあさんの口に手を入れて飲み込みきれていない白米を掻き出した。
その時K医師は、飛んでいったスプーンがリノリウムの床で跳ね返る音が印象的で覚えていると言った。
私自身、K医師は精神科の先生によくあるような、常日頃から穏やかで、衝動的な行動をする人では無いことを知っていたから、看護助手の手をはたき落としたと聞いて驚いた。
それだけ、ショックな情景だったんだろうと想像できる。
K医師はナースコールを押し、看護師長にすぐ来るように伝え、おばあさんの状態を確認した。
誤飲もなく、とりあえずお茶を飲ませて喉のつまりがないことを本人から聞いてようやく安心できたという。
当の看護助手はすでにその場におらず、どうやら逃げたようだった。そちらの処理は看護師長に委ねることとし、
「院長に相談して、できれば警察に調べてもらって」と言い残してK医師は午後の診察へと向かった。
十分に死に至る行為である。繰り返させないためにも捕まえる必要があると思ったが、病院内部のことを警察に相談するとは思えなかった。
K医師は冷静を装っていたが、内心ではあまりの仕打ちに腸が煮えくり返る思いだったと言う。
こちらが真剣に治療をしている患者さんに、ああいった暴力で命を危険にさらすなど、ありえないことだとK医師は力強く言った。
それから3日後、K医師は早朝の手術のため、前夜から病院の当直室に泊まり込んでいた。帰宅してもとんぼ返りになるような過密なスケジュールの場合の泊まりは、ままあることで慣れたものだった。
K医師は夜中に尿意で目を覚ました。あと2時間もすれば起きなくてはならないが、我慢するのも身体に良くないと思い面倒ながら起き上がった。
すると、仮眠室のドア横に人影があった。
他の先生ではない、白衣も着ていないし、そもそも……
K医師は枕元に置いてあったメガネをかけると、そこには入院着の浴衣を着た、首から上がない身体だけが佇んでいるようだった。
K医師はすぐに、あのおばあさんだ、と直感して飛び起きて白衣を羽織ると、大急ぎで病棟へとかけていった。
病棟へ辿り着くと、ちょうど当直だった看護師長が慌てて当直の医師を呼んでいるところだった。
「師長さん、もしかして」
看護師長は内線電話を切るやいなや「そうです!先生どうしていらっしゃるんです?」
「たまたま泊まり込みで……」そう話しながら急ぎおばあさんの病室に行き、看護師長と一緒におばあさんのベッドを空いている個室へ移動させた。
「やっぱり……」K医師はほぼ確信していた。
当直の医師の見立てでは、おばあさんは苦しむこともなく、眠っている間にゆっくりと心肺が停止したとのことだった。いわゆる老衰だ。
K医師は手を合わせ、ナースステーションへと戻った。
看護師長にことの成り行きを説明しながら、胸中でおばあさんに謝った。よい思い出だけ持っていけたら良かったのに、と3日前の出来事を悔やんで。
「最後に嫌な思いをすることになり、恨んでいるんじゃないかな」とK医師が思わず吐露すると、看護師長は、K医師の腕に手をおいて穏やかな声で言った。
「先生、それは違う。おばあさんの首が見えなかったのは、頭を垂れていたから。先生に、お世話になったお礼を言いに来たのよ。深く頭を下げて、丁寧にお辞儀をしていたのよ。あのおばあさんらしいでしょ」
その言葉に胸のつかえがスッと取れたんですよ、と、K医師はやや涙が滲んだ目で私に語ってくれた。
23時45分
Yさんから奇妙な話を聞いた。
Yさんには姉がいて、ある週末、お姉さんの部屋で漫画を読んでいると、突然、ドーン!!!という大きな音が天井から聞こえた。
「何の音!?」
びっくりしてお姉さんを見ると、お姉さんは壁にかかった時計を見て、「え?知らなかった?」と逆にポカンとしている。
「時々、この時間に鳴るのよ。知ってるかと思ってた」
Yさんとお姉さんの部屋は模様ガラスの引き戸を隔てただけの隣同士で、こんな大きな音なら絶対に聞こえているはずだ。でもYさんがその音を聞いたのはこれが初めてだった。
「いつから?」と姉に尋ねるも、「えー分からんけど、この時間って気付いたのはまあまあ最近。ここ2ヶ月くらい」と呑気な返答だった。
それから度々、Yさんは姉の部屋でドーン!!!という轟音を聞くが、それは決まって23時45分だった。不思議だなとは思ったが、音が鳴るだけで別にどうと言うことはなく、そのうちYさんも、お姉さんと同じように「当たり前のこと」となっていった。
ある夜、姉の部屋で姉妹揃って夜更かしをしていると、何かの用事で母親がやってきた。ドアを開けて立ったまま話す母親の相手をしていると、例のドーン!!!が鳴り、「何!?地震!?」と母親は大層な慌て用で床にへたり込んだ。
母親の部屋も姉の部屋と隣同士、でもやはり音のことを知らなかったのである。
Yさんとお姉さんは顔を見合わせて、
「23時45分に鳴る」とそれぞれ、まるで普通のことのように言った。
母親は不思議そうな顔をしていたものの、自分の子供たちが平気そうにしているからか「ふーん。変なの」と特に追求もせず部屋を出ていった。
Yさんは父親を早くに亡くしていて、その家には母側の祖父母と暮らしていた。山間部を切り拓いた住宅地で、市の中心部に行くにはバスで1時間ほどかかるし本数も少ない。Yさん家族は、Yさんとお姉さんの通学のことを考えて引っ越すこととなった。
祖父母は広い家に残すことになるがまだまだ健康で車もあり心配はなかったし、それに会いたくなればバスで来ればいい。寂しさよりも新しい環境と便利になる暮らしの方に興味が向いていた。
引越しの日が近付いてきたある夜、Yさんは就寝中に悲鳴を聞いた気がした。
うっすら覚醒してしまったが、気のせいか、猫か何かだろうとすぐに寝直そうとした。
その時、「Yちゃん、ちょっと」と自分と姉の部屋を仕切っている引き戸が少しだけ開けられた。
こんなことは初めてだった。
「どうしたの?」
とYさんは恐る恐る声をかけた。姉の声が怯えている。
「何かいる」
「どこ?」
「電気つけて。私の枕の上、頭の周り」
「え?」
「歩いてる、頭の周り、周ってる」
「気のせいでしょ」
「違う。枕が、沈んでる。歩いてるみたいに、一歩ずつ」
Yさんは気のせいとは言ったものの、本心ではめちゃくちゃ怖かったそうだ。それでも姉のために最大限の根性を出して、自分の部屋の電気を付けた。
「あ、消えた」
と姉がほっとしたように言った。
「本当にいたの?」
Yさんはわざと茶化した。姉が夜中に寝ぼけたことは一度もない。ましてや夜中に家族を起こしてそんな冗談を言うわけがないことは妹である自分が一番知っていたが、茶化さずにはいられなかった。
「いた」
姉は上体を起こして、自分の枕を振り返った。
Yさんも引き戸を開けて姉の部屋に入り枕を見ると、確かに数カ所の凹みがある。そばがらの枕で、一度凹んだら動かすまでは凹んだままなのだ。
「あ・・・あるね、跡」
「最初夢かと思ったけど、ザク、ザク、と沈む感触があって」
Yさんはふーんとしか言えなかった。お姉さんは「また来たら困るから」と枕を床に置いて電気を付けたまま再び寝始め、Yさんは自分の部屋に戻った。
それからは通常通りで姉に夜中起こされることもなく、引越し前夜を迎えた。
最後の荷造りをしていると、ふと、Yさんは23時45分の音を聞いていないことに気がついた。かれこれ数週間聞いていないと思う。ほぼ毎日だったのに。
姉に言うと、「そうなんだよ。あれ以来、あの枕の」と姉も音が鳴っていないことに気がついていた。
「ピッタリ止まった」
「ふーん」
「大きさ的にリスくらいかと思ったんだけど」
姉は喉元過ぎればなんとやらで気楽に言うが、Yさんはそうは思っていなかった。
あの時、暗闇でYさんが感じた気配は人間くらいの大きさで姉の枕元に立ち、姉の頭の周りを杖の先で、ずぶり、ずぶりと何度も刺していたからだ。
Yさんはいまだにお姉さんにこのことは伝えていない。
当直医の付き添い
1995年頃の話である。
とある地方の総合病院で看護部長として務めていたAさんから、こんな話を聞いた。
その病院は病床100ほどではあるが女性医師がおらず、患者からの要望もあったことから、ある時、女性内科医が採用された。Aさんとその女医はお互いの子供の学年も近く、すぐに二人は仲良くなり、気さくな付き合いをしていたらしい。
2ヶ月程経ったころ、Aさんはその医師から「当直勤務が初めてだから、一緒に泊まってほしい」と頼まれた。入院設備のないクリニック勤務しか経験がないという。
Aさんは、それはさぞ不安だろうと二つ返事でOKし、さっそくシフトを調整し、医師の当直日に合わせて自分を当直看護師として加えた。
看護部長として長らく現場を離れていたAさんにとってはひさしぶりの当直で、みんなの仕事ぶりも見ることができる良い機会だと、当直を楽しみにしていたらしい。
当日、23時の見回りが終わり、0時からの担当への申し送りを行なってからAさんは当直室へと向かった。
救急指定病院ではないから、夜の院内はとても静かである。病室の無いフロアは真っ暗闇で、その中を一人、懐中電灯の明かりだけで移動しなくてはならない。勤続30年を超えるAさんにとっては怖くもなんともないが。
看護師が仮眠できる当直室と、医師が待機する医局は隣り合っていて、Aさんは医局で女性医師と少しおしゃべりをしてから、仮眠のために当直室へ入った。女性医師ももう休むとのことだった。
Aさんが懐かしい当直室のベッドに横になりうとうととまどろんでいると、
「おい、おい」と老人の声が聞こえた。
現場を離れて長いとはいえベテラン看護師だ。なにかあったのかと一瞬で覚醒し、バッと目を開けると、当直室の天井に顔、顔、顔、それはもう何十もの顔がずらりとならんで、Aさんを見下ろしていた。
「え?あれ?」
Aさんはその全ての顔に見覚えがあった。元患者さんだ。無論、全員亡くなっている。
「みんなどうしたん?」
Aさんはその時、全く怖いとも変だとも感じなかったそうだ。
その顔だけの老人たちはAさんに向かって口々に言った。
「どうしたもこうしたも、あんた、珍しいやんか」
「ずいぶん久しぶりやねぇ」
「元気にしとったかえ」
「今日はどうしたんや?」
Aさんは何の恐怖も感じないまま、非常に冷静に「当直医の付き添いでねぇ」と事情説明したそうだ。
顔の老人たちは、「そうかそうか」と言ってみんな消えたという。
「おかしな話やけど、そのときは別に変に思わんかったのよ。ほんでね、よく考えてみたらあの患者さんたちはみんな私が看取った人よ。ほとんどが身寄りがない老人でね、私が最後まで、清浄してあげてお線香焚いてね」
Aさんはそれ以降、時々当直室にお菓子やお線香を置くようになったらしい。
「若い看護師さんには嫌がられるけど、まあ悪いもんじゃないし。時々行ってあげんと」とAさんは懐かしそうに目を細めて微笑んでいた。
友達の部屋に幽霊が出る話 <異臭>
件の友人Aが転職を考えていることは先述<困った同僚>に記載した通りだが、資格もあることだし条件さえあえばすんなり決まるだろうと思う。
壮行会の後、まだ夜の11時前だっただろうか、とにかく終電までまだあるし、そもそも友人Aは自転車で来ているということで時間に余裕があった。
私はたまに行く深夜営業の喫茶店に友人Aを誘い、そこで暖かいココアでも飲もうと提案した。
彼女の枕元に立つという、デニムの男性の話を聞くためだ。
喫茶店の年季の入ったスウェード調のソファはえんじ色で、友人Aはウインナコーヒーを頼んでいた。
「で、あれからジーパン君となんかあったの?」
私は意図的に、彼が実在しているかのように言った。久しぶりに会う友人Aの考えが読めないからだ。
「寝る前に話しかけてきはんねんけどな、ちょっと前まではよく聞きとられへんかってんけど、こないだからハッキリ聞こえるし、こっちが答えたことに返事してくれるようになったわ」
「どういう風に話すの?」
「足元におる小さいやつの話したっけ」
「した。R2D2みたいな」
「それ。そいつが通訳っていうか、スピーカーみたいな感じで、そこから声がしてると思う。でもな、寝てるときに話しかけてくるやん?で、こっちが起き上がるとあかんみたい。寝たまま話すと会話になんねんけど」
「ジーパン履いてるのは、わかる?」
「わかるよ。相変わらずジーパンに、白かベージュのセーターみたいなの着てる」
「寝たまま横向くと見えるってこと?」
「顔は?」
「前にちらっと見たと思うけど、ぼやけてて。寝起きで眼鏡かけてへんし」
「その足元におるR2D2みたいなやつってさ、機械なん?」
「微妙やねんな。頭を上げると見えると思うねんけどさ、なんか金縛りみたいになってて、目は動くけど身体はこわばってる。無理やり動かすとつりそうで怖いしな」
「どんな話するの?」
「最初は、今日仕事どうやったー?みたいな普通の話。あとは寝る前に見てたドラマの話とか?」
「日常会話か」
「あと前によく泊まりに来てたCさん、最近見てないとか」
「あー、そっちも変な話よね」
「ほんでまあ普通に話しかけてきはるし、こっちも普通に答えるようになってな。3日置きくらいかなぁ、今んところ。おかげで寂しくないわ」
と友人Aは笑った。
「そういえば冷蔵庫は?」
私はふと、このデニムの男が現れる前に友人宅で問題になった冷蔵庫のことを思い出した。
「まだ真言唱えてるの?」
「いや、お札貼ってる。八坂神社の。でもまた最近夜うるさい時があるから、そろそろお札もらいにいかなあかんなと」
「毎回じゃないけど、普通に話しててもな、途中でノイズみたいな、ガシャガシャした大きな声出したり、ぐちゃぐちゃになることがあんねん。そうなったら唱えるようにして、帰ってもらう」
「帰ってもらう?」
「うん。話聞いたらさ、夜になると足元のコ連れてうち来てるねんて」
「通いの幽霊ってこと?」
「幽霊なんかなあ。はっきり会話できるようになってさ、なんか曖昧なんよな」
「なにが?」
「いやさ、ほんまにおるんちゃうかなって」
「え、でも玄関から入ってきてないっていうか入れてないよね?」
「ないない。ないけど、なんか実在してる気がすんねんなー」
「いやほんなら実在してないやろ。っていうかさ、知らん人間の男が枕元に立ってるほうが幽霊より100倍怖いで?」
「知らん人間ってわけではないねん」
「どゆこと?」
「最初は知らんやん、それはみんなそうやん。でも、知り合って仲良くなっていくやん?」
「そらそうやな」
「こないだからな、私、ジーパン君に恋人扱いされるようになってん」
「え?えっ!?」
「最初は知らん人やけど今は恋人っぽいし、夜会いに来てくれてるって言うていいと思うねんけどさ。どう?」
友人Aはほんのりと笑顔で会話を楽しんでいるようだった。
基本的に優しい表情でいつも朗らかな友人なので、この会話も、まるで日常の恋バナでも語っているかのようなトーンだ。
どう?って聞かれても、実在してないのは明白で。
「今日、泊めてもらっていい?もしかしたら会えるかもしれんし」
と私はイチかバチかで友人Aに聞いてみた。以前に聞いた話では、彼女一人の時にしか現れないとのことだったが。
「そうしよ!見てほしいドラマあるし!」
友人AはとてもうれしそうにOKしてくれた。
散らかってるから、ちょっとゆっくり来てな!と言い友人Aは自転車で帰っていった。私は電車で2駅先の友人宅の最寄り駅へ移動し、マンション近くのコンビニで買い物しつつ時間を見計らって、友人Aに電話を掛けた。
いつでも来てや、とのことなのでマンションに向かい、部屋番号を押し、オートロックを解除してもらい・・・
ジーパンの男はこういう過程を経ずに友人の部屋に現れているということなんだと実感する。絶対おかしいやん。
それでも、私は故知の友人Aの発言を100%信用していて、何であろうが、彼女から見えているならばそれでいいと思っている。
ただ、男が実在しているかもしれない、という考えを持ち始めているのが心配だった。
もし実在しているのならば、出てくれば私にも見えるはずで、出てこなくても呼べばなんらかの反応があっていいのではないか、恋人なら。
最も考えられないが、もし友人Aが私をからかっているのであれば、こんな急な泊りのオファーは断るだろう。
私は早歩きでコンビニの袋をガサガサさせながら部屋のチャイムを鳴らす。
「開いてるで」との返事で、ドアを開けて入る。
その時のことは、これを書いている今でも、思い出すのが辛い。
玄関から一歩入ると「ん?」とちょっと鼻につく臭い。そして冷蔵庫の前を通りリビングへ入ろうとして、思わず後ろにのけ反ってしまった。
異常に臭かった。えずくほど臭かった。
ガス臭に近い、オナラを煮詰めたような臭いとでも言うか。
そんな中で友人Aはニコニコ笑顔で、ソファベッドでくつろぎながら、「冷蔵庫にお取り寄せのタラコあんねんけどな、お茶漬けでもする?」と。
息をすることもままならないくらいの異臭なのに。
私はかろうじて口を開けて、
「なんか変な臭いする・・・気がする」
と言ってしまった。こういうことを言うのは本当に失礼なのはわかっているがあまりに異常に臭すぎた。
「えー?そうかなあ?部屋干ししてたからかもしれん。窓開けよっか」
正直そんなレベルじゃない。とにかく耐えられない臭さだった。
しかし部屋まで来ておいて急に帰るわけにはいかないから、一旦は鼻で息をしないようにしながら上がらせてもらう。
友人は窓を少し開けてくれ、私も玄関のドアを数秒開けたままホールドする。風が抜けるのがわかる。
少しはマシになるだろう。
友人は部屋を片付けてすぐにシャワーを浴びたらしく濡れた髪を拭いていた。私もどうせ泊まるのなら早めに浴びてお友人に断ってまずシャワーを使わせてもらった。
とにかくこの悪臭から逃れたい一心でのことだったが、不思議なことに、バスルームは無臭だった。換気扇のおかげだろう。
手早く浴び、髪の毛をバスタオルで巻いてリビングに戻ると、ひどい悪臭は大幅になくなっていて安心した。窓からの風が寒いのだろう、友人はブランケットに包まっていた。
急いで窓を閉めに行くと、外の騒音の大きさに驚く。なにわ筋は昼夜問わず交通量が多く、とくに夜間はトラックの走行音がビルに反射してより大きく聞こえる。しかし窓を閉めてしまうと騒音がほとんど気にならない。ちゃんと防音窓の部屋を選んでいるあたり、友人のしっかりしたところだと感心する。
「いつもどんな風に彼は来るの?」
私はあえて『出てくる』という表現を避けた。
「寝てる間やからなあ。1時から2時の間くらいちゃうかな」
「今夜来てくれると思う?」
うーん、と友人Aは渋い顔をした。Cちゃんが泊まりに来た時もとうとう現れなかったらしいから、まず望みはないだろう。
Cちゃんといえば。友人Aに会社で「この大嘘つき!!」と怒鳴りつけた同僚だ。
私の知る友人Aは誠実で、真面目で、努力家で、まず人に嫌われることはあり得ない。
それが私だけが持っている感想ではないエピソードとして、どの家のお母さんにも非常に評判がよく、男の子のお母さんには「ぜひお嫁さんに欲しい」、そしてうちの母は「あんなしっかりした友達がいて安心した」と実の子より信頼を置かれるほどだ。
そんな彼女に対して、Cちゃんの発言は非常に理解しがたい出来事だった。
今その話を蒸し返してもいいものか迷ったが・・・
「Cちゃんとはあれっきり?」
「せやねん。酷なってるわ。なんか怖いみたい私のことが」
「怖いってどういうことやろ。怒ることなんてないよね?」
「無い無い。そもそも部署違うし。ただフロアが一緒になって、トイレやらで会うねんか。一瞬で顔面蒼白にならはんねん」
「すごいな」
「なんかこっちが申し訳ない気持ちになるくらい。ガタガタ震えてて、嫌悪感って感じよりも恐怖感っていうか、ヒッって小さく悲鳴上げるくらい」
「どこの職場でもイヤな人って絶対おるけどさ、会っただけで震えたり悲鳴上げるっていう嫌い方にはならんよね・・・」
「せやねん。そこまであかんようになる前に社内の相談窓口にメールするとか、私が原因なら相談行ってくれて全然ええねんけど」
「知らんところで他人を傷つけてることってあるけどさぁ・・・にしても怖がり方がヤバい」
「気ぃ遣うわ、トイレ行くタイミング」
友人Aは自嘲気味に笑って言ったが、少し寂しそうだった。
そうだよね、毎週のように泊りにきていた友達から突然猛烈な拒否にあってるんだもの。
それから友人AのおすすめのUSの刑事ドラマを数話見て、私はいつの間にか寝落ちしてしまった。
ふと、自分の咳で目が覚めた。喉がカサカサに乾いている。
枕元のペットボトルに残っていた水を一気に飲み干す。その途端、異臭が鼻をついた。
この部屋に来た時と同じような、おならを煮詰めたみたいな臭い。ガスとは違う、もっと濃度の濃い腐臭のような・・・
とてもじゃないが我慢できない・・・
私はベランダの窓を開けた。空はうっすらと明るくなってきている。時計を見ると5時ちょっと前だった。
ベランダもそうだが玄関のドアを開けて顔だけを外に出すと、臭いは全く感じられない。
窓からの空気で少しは呼吸ができるようになったものの、それでもあまりにも臭い。
しかも、部屋をうろうろしてみるが臭いの元が特定できない。
この部屋全体が同じように臭いのだ。
これ以上いたら吐いてしまうと感じた私は、急いで着替えて友人に声を掛けた。
「ごめん、起こして。今日サカイ来るの忘れてた。ほんとごめんけど、帰るね」
本当は8時ごろに出れば間に合うのだが、もうえずいてえずいて、今にも吐く寸前だった私には部屋を出る以外の選択肢は考えられなかった。
友人Aはそれでも「あ、そうなん?気ぃつけてな~」とのんびりと送り出してくれた。
それが、彼女と交わした最後の会話となった。
共通の友人たちと話す機会があったときに友人Aのことを聞いてみると、全員が連絡取れない状況らしい。SNSでもLINEでも。
ただ、年賀状だけが送られてくるのは変わらないとのこと。
それはうちもそう。
今思い出すだけでもちょっとえずいてしまう異臭の話。
友達の部屋に幽霊が出る話 <困った同僚>
枕元に男が現実にいる、という主張ではなく心霊現象かも?と友人Aが認識しているという安心感から、私は話題を変えて仕事の悩みとやらを聞いてみた。
新たに配属されてきた3つ年下の女性とのソリが合わないらしい。
その女性は便宜上Bさんとする。
Bさんは友人Aの隣席となり、同じ業務ではないが部署の先輩後輩の関係上、なにかとアドバイスする立場となった。女性が多い職場ではないから仲良くやっていこうと友人Aは努力したという。
しかし、Bさんは職場に慣れてきたころから、友人Aが毎朝タリーズやスタバでコーヒーを買って持ってくることを大声で「またコーヒー買ってる!!そんなお金どこにあるんですかー!贅沢して!!」と大声で言うようになったそうだ。
友人Aは昔から小食で昼は持参のおにぎり1個程度、昼よりも朝のコーヒーを優先しているが、1日の食費は私よりもずっと抑えていて堅実に暮らしていた。資格試験へチャレンジするのも資格手当があるからだ。大飯喰らい&浪費家の私とは真逆で、そんな堅実な友人Aを私は尊敬していた。
「毎朝やで。せやし、最近はうっとうしいからスタバのタンブラーやめて、サーモスの水筒に入れなおしてる。言うてBさんが買うてるお昼のお弁当よりコーヒーの方が安いねんけどな」
当時のコーヒーショップは、2022年の現在よりもっと安かったように思う。独り暮らしをしていても、毎日、しかも朝はタリーズやスタバでタンブラーにコーヒーを注いでもらい、昼は喫茶でコーヒー飲んでから職場に帰るのが習慣、くらいの価格だった。
余談だが私はSeattle's Best派だった。
友人Aが続けるに、
「ほんでな、こないだコピー取りに行って戻ってきたら、Bさんが私のデスクの引き出しを勝手に開けててん」
「まじで?」
「帰るときくらいしか施錠せえへんやん?」まあそらそうだ。
「しまった、って感じの顔してたけど、私が席に帰ったら”引き出し開けっ放し、不用心”って言われてもーてさ」友人Aは自嘲気味に笑って言ったが、「(開けっ放しは)ありえへん」
彼女の性格上、そんな雑な行動は絶対にありえないと私も知っていた。
「その次の日にな、何が起こったと思う?」友人Aは難しい質問をしてきた。
「全然わからん」
「Bさんが、私とおんなじバッグ持っててん。そのバッグ、前の日に開けられてた引き出しに入れっぱなしにしてるやつやねん」
「どゆこと?お揃い?」
「せやねん。私が使ってるの知ってて、Bさんからも ”いいですね” って言われたことあるし、お揃いで買わはったんかなと思って。でも引き出し開けたら無かった」
「窃盗か」
「昼休み外出するとき用に、財布とスマホくらい入るようなサイズの、あるやん?ミニトートみたいな」
はいはい、女子ならだいたい職場に置きっぱなしにしてる。
「で、どしたん?」
「私も我ながらお人よしやなって思うねんで。もしかして無意識に家に持って帰ってもーてるかカバンに入れてるかもしれんしーって思ってな。別に大事でもないからなんも言わへんまま終わってんけど。家帰ってもトートあらへんねんなー」
「どうすんの」
「もうええかなって。どこでも売ってるDean&Delucaのやし。なんか言うたら逆に騒ぎ立てられそうやし・・・」
そのほか、いくつかBさんの言動に迷惑しているという話だった。
例えば、コーヒーだけでなく昼食についても余計なことを言ってきたり、突然お揃いのカーディガンを着てきたり(窃盗ではなく本当にお揃い)、しつこく休日に遠出しようと誘ってきたり。
それを聞くと、Bさんは不器用ながらも友人Aに好意があるのでは?とも思えるが、友人Aからすれば「イヤな感じの粘着」だそうだ。
そして、Bさんは壊滅的に仕事ができないそうだ。
友人Aには、頻繁に泊まりにくる同僚の女性がいる。彼女はCとしよう。
Cさんは実家暮らしで遠方なため、職場に近い友人Aのマンションに毎月泊まりに来ては漫画を読んだり映画を見たり、友人Aの良い推し活相手になっているらしい。
友人AはCさんにも、Bの行動に迷惑していることをよく話していた。同じ職場だし、二人の面識も当然ある。
ただCさんが被害にあっているわけではないから、BさんがCさんを誘う形で遊びに出かけたり、また友人Aも交えて3人でコストコへ行ったりする機会もあったらしい。
ほどなくし、友人Aは持病が悪化したため1週間入院することになった。Bさんのミスをカバーする形で残業が続き、ストレスと寝不足で食事も満足に摂れていなかったらしい。
そして退院後は、基本的に休日は外出せず体力を温存するようにしているとのことだった。仕事をやめるわけにはいかないから。Cさんのお泊りは激減したものの、時々、週末に遊びにくることはあったらしい。
「Cさんは知ってるの?冷蔵庫とか、ジーパンの男とか、」
「知ってる。でもジーパンの話してからはあんまり泊まりはないかも」
「Bさんは?」
「言うてないよ。そんなん職場でまた大声で何言われるかわからへんし」
「バッグのこと、Bさんに聞いてみたら?私も同じの持ってたけどなくなった、とか」
窃盗ならば、会社に言えるんじゃないかと思ったが、友人Aはかなり消極的だった。
「ちょっと前の話やし、めんどくさいし、ええわ」
その返答から、友人Aの疲弊ぶりが伝わってきた。
ある日、友人Aから久々にLINEで食事の誘いがあった。凝った野菜料理を出すイタリアンを見つけたということで、私は二つ返事で承諾して出かけた。
最後に話してから、半年は経過していた。
前述のとおりだが、Bさんのことで相当ストレスが溜まっていたようだったから、今回もグチがあればたくさん聞いてあげようと思っていた。
当日、現地集合で落ち合うと、友人Aは驚くほど痩せていた。
以前よりも偏食になってしまい、食べると具合が悪くなる食材が増えたらしい。それを除くと体調面は良好で、土日もどちらかは外出できるようになり、寝込むこともなく、うまく体調管理ができているとのこと。一安心だ。
とりあえずこの半年間の近況報告をしつつ、共通の友人の噂話などしつつ食事が進み、デザートが出て落ち着いてきたころ、私は友人AにあれからBさんとはどうなったのかを訪ねた。
コーヒーもあるし、なんでも聞きまっせ、と。
そこで友人Aは、「もうほんまに困ってんねん」と前置きして話し始めた。
最初は、半年前にも聞いたバッグ窃盗疑惑から始まり、仕事の尻ぬぐいが大変、お揃いのカーデ・・・
私は、その後の話をするために前置きをおさらいしてくれてるのかなと思って適当に相槌を打ちながら聞いていたが、しかし、彼女の口から語られたのは、半年前のそれと寸分違わない内容だった。
友人Aが満足そうに話している姿を目前にすると、ほかには?とか、それ前に聞いたやつやで?と話の腰を折ることはできなかった。
全く同じ内容でも、何度でも話して、そのたびにすっきりすればいいと思って。
私はやや困惑したものの、話の内容が変化していないということは新しい困り事が発生していないということだ。
それからしばらく経って、私は夫の転勤で遠方に引っ越すこととなった。友人たちが数名集まって壮行会を開いてくれ、もちろん友人Aも参加してくれた。
久しぶりに会う友人Aはほんのちょっとだけ体重が増え、顔色もよく、壮行会の食事も問題なく食べられていたので安心した。
3次会だっただろうか、酔ってうるさい友人たちから距離を置いて、私は友人Aの隣へ陣取り「最近どう?」と。
そして語られたのは、イタリアンレストランでのそれと寸分違わない内容だった。要は最初の内容と変化がない。
しかし今回は新しい出来事の追加あった。私が、「Cさんとは相変わらずお泊り会してるの?」と聞くと、「それがな・・・会社で会っても避けられてるねん」と。
「あんなに仲良かったのに、どうして?」
「私もワケがわからへんねんけど。Cさんと会社の廊下で会ってん。ほんなら急に大声で 『この大噓つき!!!』って叫ばはってん」
衝撃だった。そもそも社会人として、しかも結構いい歳で、職場で避けるとか常識では考えられない上に、そんな・・・
「で、どうしたん?」
「私もわけわからんし、え?なに?どうしたん?ってCさんに寄って行ってんな。そしたら真っ青な顔して、ガタガタ震えて、思いっきり拒否反応でてんねん。『近寄らんといて!』って言うて廊下走って行かはった。やし、それ以来連絡してへん」
「でも会社で会うやろ?」
「もともと部署が違うから、休憩室かコピー室でたまに会うくらいやってんけど。今ではお互いが避けてる感じ。私がおったら絶対に入って来はらへんわ」
Cさんからヒアリングできない以上、なぜいきなりそんな展開になってしまったのか知りようがない。
「なんかわからんけど、誤解が解けるといいね」と私は気慰め程度のことしか言えなかった。
友人Aは、「もう別にええわ~。実は転職活動中やねん」とさっぱりと言った。
「あ、そうなん?応援してる。いいところ見つかりますように」
「ありがとう。ジーパン君は、なんやブーブー言うてたけど」
「え?もしかして前に言うてた、枕元に立つ男の人?」
「そう」
「まだおったん?」
というか、会話が成立するようになってるやん・・・。
友達の部屋に幽霊が出る話 <デニムの男>
友人Aが独り暮らしをしているマンションに泊まりに行ったときの話。
前回、冷蔵庫が夜中に動くから寝る前に真言を唱えている、という友人Aの家に、また泊まりに行くことになった。
推し活に誘われてのことだった。あと仕事で少し悩みがあるらしい。
友人Aが勧める海外ドラマをある程度見たあとの休憩中、冷蔵庫に真言を唱えてきた彼女に、「まだ効いてる?」と私は何気なく尋ねた。彼女の行為を疑っているわけではなく、夜中起こされずにいる状態かどうかという意味で。
「冷蔵庫には効き目あるみたい・・・。でもな、寝てると、枕元に男の人がおんねん」
「どゆこと?」
「あんな、夜寝てると、若い男の話し声がすんねん。最初はテレビつけっぱで寝たせいかと思ってんけど。でもイヤな感じじゃないからほっといてん」
「何て言うてるん?」
「はっきり聞き取られへんねん。だから夢か、寝ぼけてるんかもって」
声が聞こえる状態は1週間ほど続いたらしい。
「あんまり話し声がやかましいから起きてん。起きて電気付けて、うるさいっ!って言うてん。ほんなら、青いジーパン履いた若い男の人がびっくりした顔でベッドの脇に立ってはって」
「まじか」
「しかも話してたのは私にじゃなくて、なんか足元におる小さいやつにやねん」
「ジーパンの男と、もう1体?」
「せやねん。なにかはハッキリ見えへんねんけどな、R2D2みたいな形の・・・」
「犬とか猫じゃなくて、縦長ってこと?」
「そうそう。ジーパンの青年の膝くらいまで」
「ふーん・・・」
さすがにそれは・・・あかんのちゃうか。と私は一瞬思った。
それでも、彼女に対する私の信用というか既知の人間性として、急にそんな突飛な作り話をする人間ではないのだ。昔から持病がありたまに寝込むことや入院したこともあるが、基本的には元気に仕事もバリバリこなし、資格の勉強もし、真面目で誠実な女性なのだ。
「ほんで?」あたかも当たり前のように、日常会話のトーンで話してくる彼女が、そのジーパン青年を認識してからどうしたのか気になった。
「例によってな、真言を唱えた。3回。ほんなら、”え~?”っていう不満そうなリアクションして消えてった」
「ふーん・・・。それは、いつ頃から?」
「ここ半年くらいかなあ。週1か2で。真言唱えると消えるし、なんか怖いとかじゃないし、ええかなって」
「平気?」
「一応、お祓い行ったほうがいいかなとは思ってる」
「せやんな!?心霊現象的な話してるよね?」ようやく言えた。自覚してるなら良しか。
「あんま自覚ないねんけどな?やっぱ客観的にみるとオバケかなって」
アハハ、と友人Aは楽しそうに笑った。
友達の部屋に幽霊が出る話 <歩く冷蔵庫>
友人Aの部屋に泊まった時の話をしようと思う。
友人Aとは学生時代に知り合い、疎遠になりがちな私をいつもそっと支えてくれていた。
とても聡明かつ優しい女性で、お互いの実家にも泊まりに行くような仲良しだった。
今では年賀状程度の交流しかないが、それも私の友人付き合いの下手さ故のこと。年賀状をくれるだけでもありがたいと思っている。
さて。
話は今から数年遡る。
就活の関係で、私は、友人Aが独り暮らしをしているマンションに連泊させてもらうことになった。4泊ほどにもなるのに、彼女は笑顔で快く迎え入れてくれた。
平日は働いている彼女のためにできるだけ家事をし、夕飯を用意しておくと「帰ってきてごはんがあるなんて、こんなにうれしいことなんやね」と非常に喜んでもらえたのを覚えている。
友人Aの部屋には時折彼女の同僚が泊まりにくるらしく、客用の布団、客用のパジャマなど一式がすぐに取り出せる場所においてあり、「ああ、ちゃんと新しい人間関係を作って楽しくやっているんだなあ」と私もうれしく思っていた。
金曜の夜だったと思う。翌日は休みだから、撮り溜めているオススメの海外ドラマを一気見しようということになった。今で言う推し活だ。タイトルは失念してしまった。
夜が更けてくると、友人Aがスクッと立ち上がり、キッチンへ向かった。
広いとは言えない1Kの部屋で、数歩離れると独り暮らしサイズの冷蔵庫が置いてある。友人Aは冷蔵庫の前に立つと、「~~~~~~~~」とよく聞こえない言葉をつぶやいていた。
「何か言った?」と私が訪ねると、
「真言唱えてんねん」と笑顔で答える友人。
「え?なんて?」真言ってあの呪文みたいなやつ?と思いながら聞き返す。
「〇〇って漫画に真言がいろいろ出てくんねんけどな、それの、これ」
と彼女ははっきり声に出して真言を唱えた。
いわゆる、「オン、ソワカ・・・」的なやつ。
漫画のタイトルも真言もはっきり覚えていないが、悪霊と戦う系の少女漫画だったと思う。私はたぶんその漫画を読んでなかったんだろう、頭に炎のミラージュが浮かんだのを覚えている。
「なんで?」
「あんな・・・」
友人Aは、ここ1年ほどの間、彼女に起こっている現象をすべて説明してくれた。
まず最初は、深夜の騒音。
夜中にドシンと何かが倒れる音がして目が覚める。
地震速報を見ても何もなし、本棚を見ても落ちているものはなし、寝ぼけたかなと寝直す。しかし1か月近くそれが続いたあたりから、どうもおかしい、と思い始める。
ある日、帰宅して部屋に入るなり、キッチンの冷蔵庫が15cmほど前に飛び出していた。もちろん地震は起こっていない。
気持ち悪いなぁと思いながら冷蔵庫を元の位置に押し込み、その日は眠りにつく。
すると夜中、ブオーンという冷蔵庫の音が部屋中に鳴り響き、うるさくて目が覚める。
これは冷蔵庫の故障だ、と一旦コンセントを抜いて対処。
さっそく週末に冷蔵庫の修理に来てもらったところ、業者さんには故障個所が特定できず、また通常騒音の原因となる箇所にも不良や劣化等がないと。
壊れていないなら買い替えるのもなぁ、と友人Aはそのまま冷蔵庫を使い続けることに。
ある夜、またブオーン、ガタガタという相当大きい音で目が覚める。部屋が揺れた気がしたらしい。
飛び起きて明かりをつけると、冷蔵庫が左右に揺れながら前進している。
もうええわ、ほっとこ。と、そういうことを目の当たりにした時の妙な冷静さで、二度寝につく。
「でもずっとやねん。ほんでええ加減、寝不足になってな、試しに、昔漫画で読んだ真言を唱えてみてん」
「なんで?」
「いや、フト頭に浮かんだのがそれやったってだけやねんけど」
「で、どうなった?」
「それが、真言唱えたとたん、ピターッと止まってん。音も、ガタガタも」
それ以降、夜中に冷蔵庫がガタガタし始めると真言を唱えていたが、ほぼ毎晩ではさすがに寝不足になる。
そこで試しに、夜寝る前に冷蔵庫に向かって真言を唱えておくという予約システムを導入したところ、その夜はガタガタが鳴らず。翌日も試すと、夜中に起こされることはなく。
という経緯で、夜寝る前に冷蔵庫に向かって真言を唱えるのが日課になったとのこと。
こう書くと友人Aがオカルト思考の持ち主のようだが、彼女はオカルトや心霊からは縁遠い人で、相当数の漫画や映画を見るがオカルトもの、ホラーものはほとんど持っていない。好きな作家が描いていれば読む、くらい。
実際、彼女との長い付き合いの間で、こういった怪奇、心霊的な話になったのは、この時が初めてだった。ゆえに私は「この人が真面目に言うんなら本当なんやろうな」くらいの漠然とした肯定感はあった。
が、漫画に出てきた真言を唱えてみた、という友人Aの行動に、言葉にできない奇妙な違和感を覚えたのは確かだった。